日蓮宗信仰徒然

日蓮宗信仰徒然

創価について

折伏について、創価学会の方へお伺いする。

六根清浄の功徳を得る大事な修行を、不軽菩薩が私達に姿を示しています。釈尊は『法華経』の「常不軽菩薩品第二十」(法華経497)で説かれており、折伏で不軽菩薩の精神を身に付けることが出来ます。

 「常不軽菩薩品第二十」に、

「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。(我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。)」(法華経500)

と説かれています。信心をしない人々の心には、仏性が厳然と存在するため、不軽菩薩は慢心を起こさず敬ったのであります。私達も折伏において心得なければいけない大切な教訓です。

 折伏は、信心しない人から「罵詈讒謗」「悪口雑言」の応酬が時としてあります。この時に不軽菩薩の精神を思い出すことです。耐え忍ぶことで、六根清浄の功徳を得ていくことを確信しましょう。忍ぶことで「柔和忍辱衣」が、御本尊様の尊い力用により身に纏うことが出来ます。

 折伏する相手が「悪口罵詈」してくる場合、相手の心が貪瞋癡の三毒に汚されていることを理解します。私達は、相手の感情に左右されることなく、不軽菩薩の振る舞いを相手に示し、折伏を行うことが大事です。その姿勢に動執生疑が起き、正信に目覚め折伏の成果に結び付けることが出来ます。

 『御義口伝』に「常不軽品卅箇の大事」(御書1777)があります。「第一 常不軽の事」「第二 得大勢菩薩の事」「第三 威音王の事」「第四 凡有所見の事」「第五 我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏の事」「第六 但行礼拝の事」「第七 乃至遠見の事」「第八 心不浄者の事」「第九 言是無智比丘の事」「第十 聞其所説皆信伏随従の事」「第十一 於四衆中説法心無所畏の事」「第十二 常不軽菩薩豈異人乎則我身是の事」「第十三 常不値仏不聞法不見僧の事」「第十四 畢是罪已復遇常不軽菩薩の事」「第十五 於如来滅後等の事」「第十六 此の品の時不軽菩薩の体の事」「第十七 不軽菩薩礼拝住処の事」「第十八 開示悟入礼拝住処の事」「第十九 毎自作是念の文礼拝住処の事」「第二十 我本行菩薩道の文礼拝住処の事」「第廿一 生老病死の礼拝住処の事」「第廿二 法性を礼拝する住処の事」「第廿三 無明を礼拝する住処の事」「第廿四 蓮華の二字の礼拝住処の事」「第廿五 実報土の礼拝住処の事」「第廿六 慈悲の二字の礼拝住処の事」「第廿七 礼拝の住処分真即の事」「第廿八 究竟即礼拝住処の事」「第廿九 法界礼拝住処の事」「第三十 礼拝の住処忍辱地の事」という三十の大事が説かれます。

 日蓮大聖人は法華経の行者として、法華経に説かれる不軽品を身読され、御書のいたるところに、その文証を拝見することが出来ます。私達は、大聖人の御書を心肝に染めることで、不軽菩薩の振る舞いをすることが出来、六根清浄の功徳を得ていきます。

 


言う事は立派ですね。だが、折伏する方が罵詈雑言を放っているのはなぜですか?あなた方の正しい本尊を拝めば仏界が涌現してくるはずなのだが、修羅界涌現で知恵袋で噛み付いて来られる創価学会の方はほぼ悪口、罵詈雑言しかいわない。そう言う方はみなさんブラックリストにしましたが。創価学会の本尊を拝めば修羅界涌現するのですか?柔和忍辱衣は無いのですか?私からはあまりに目に余る以外は罵詈雑言は言わないから、柔和忍辱衣はいらないと思いますが。破折折伏する方が罵詈雑言ですから、話になりません。

やはり、創価学会お手製本尊を拝めば修羅界涌現するのですか?御書の文証を示して破折折伏しないのかね?御書の解釈が違うから噛み合わない平行線、相手にしないと言い放った方もいる、では小樽問答をなぜ学会から噛み付いて来た?この問答も大勢で二人の老師を罵詈雑言、悪口で吊るし上げましたよね。あなた方大石寺本尊の時も仏界涌現してなかった?やはり修羅界涌現でした。問題は富士派本尊、日蓮本仏論にあるのでは?間違った本尊、間違った偽仏を崇拝することに問題有りと見た!