日蓮宗信仰徒然

日蓮宗信仰徒然

曼荼羅と釈迦像

清澄寺大衆中 建治二年正月 五十五歳御作


日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり、此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給うべき、大衆も日蓮を心へずに・をもはれん人人は天にすてられ・たてまつらざるべしや、かう申せば愚癡の者は我をのろうと申すべし後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申す

 

身延での御述作。起請文を書いて日蓮のご本尊の手にゆいつけて祈り一年云々

曼荼羅本尊と釈迦像を身延での本尊と安置していた事がわかる御書です。

曼荼羅には手はありませんから。釈迦像の手に起請文を結び付けて一年祈りと仰せです。

生涯釈迦像は手放さなく、曼荼羅と安置されています。曼荼羅以外の仏像安置は謗法ではありません。謗法とは法華経を謗ること。富木殿ご返事、真間仏供養亊にも、富木殿、大黒供養の折に云々、釈迦像造立に急ぎ弟子を開眼に行かせると仰せ。日蓮大聖人の仏像安置にはおおらかさが分かります。

あくまで曼荼羅と仏像とセットであろうと考えます。したがって、曼荼羅本尊と脇士、大黒、鬼子母神は富士派の言う謗法ではありません。

偏狭な原理主義者の考えである。

謗法なら日蓮大聖人がなされるはずがない。