日興上人の御文
『宗学全書』の「日興上人御消息の部」においてには、
「久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり。・・上行菩薩日蓮上人の御霊崛なり」(与波木井実長書・宗全2-169)
「日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為めには釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を」(原殿御返事・宗全2-173)
「しょほっしんの、しゃかほとけ(釈迦仏)」(報佐渡国講衆書・宗全2-178)
等とあり、また「述作の部」の、『三時弘教次第』に「付属の弟子は 上行菩薩 日蓮聖人」(宗全2-53)
とあり、また、日道上人述『御伝土代』には、日興上人の言い置きとして「日蓮聖人云わく、本地は寂光地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり。久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身寿命無量阿僧祇劫常住不滅我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数の本仏なり」(宗全2ー254頁)等とあります。これらを文証として、日興上人は久遠実成釈尊を本仏とし、大聖人を久遠実成釈尊の弟子上行菩薩の応現と説示していたことが判ります。
本尊異聞回答
回答いただきました。
日蓮聖人は『金光明経』の「一切世間の所有る善論は皆此の経に因る」との文、 『涅槃経』の「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず」との文、止観弘決「礼楽前に駈せて真道後に啓く」等の文を根拠にして、孔子老子等の教説は仏教の先駆け、仏教受容の前準備的なものして、その意義を評価しています。(災難対治抄・下山御消息を参照)
また『減劫御書』によると、当時の社会を善導した人を「教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人はしらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。」と評価しています。
ただし、「大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり、大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず」(減劫御書)にあるように、あくまで前方便的(準備的)教説として扱うべきとしています。
仏教ないし法華経の準備的役割の活動、教説として評価し扱うことがいわゆる法華経の開顕ですね。
「勧請すれば、何を拝んでも良い、キリストやマホメット、阿弥陀でも良い」と言っていた人の真意がどういう意味かわかりませんが、もしかしたら開顕思想の誤解に基づいた見解では無いでしょうか。
「最近では、曼荼羅本尊に釈迦、日蓮聖人が書いてあるから、曼荼羅本尊だけで良い。釈迦像、日蓮祖師像、鬼子母神、大黒もいらない。曼荼羅本尊だけで良いと、言い始めました。」との事ですが、「日女御前御返事」に「宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い」との文によれば、大曼荼羅には諸仏菩薩諸天が住している事になるので、 「曼荼羅本尊だけで良い」という極端な見解も主張し得ます。
日蓮宗では、御本尊としてではなく御守護神として有縁の神を別勧請して尊崇している寺院教会結社が多いです。またほとんどの寺院教会結社では大曼荼羅の前に祖師像をお祀りしていますね。
強いて「釈迦像、日蓮祖師像、鬼子母神、大黒もいらない。曼荼羅本尊だけで良い」と叫ぶ必要はないと思います。