日蓮宗信仰徒然

日蓮宗信仰徒然

本尊異聞回答

回答いただきました。

 

日蓮聖人は『金光明経』の「一切世間の所有る善論は皆此の経に因る」との文、 『涅槃経』の「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説なり外道の説に非ず」との文、止観弘決「礼楽前に駈せて真道後に啓く」等の文を根拠にして、孔子老子等の教説は仏教の先駆け、仏教受容の前準備的なものして、その意義を評価しています。(災難対治抄・下山御消息を参照)
また『減劫御書』によると、当時の社会を善導した人を「教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人はしらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。」と評価しています。
ただし、「大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり、大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず」(減劫御書)にあるように、あくまで前方便的(準備的)教説として扱うべきとしています。
仏教ないし法華経の準備的役割の活動、教説として評価し扱うことがいわゆる法華経の開顕ですね。
「勧請すれば、何を拝んでも良い、キリストやマホメット阿弥陀でも良い」と言っていた人の真意がどういう意味かわかりませんが、もしかしたら開顕思想の誤解に基づいた見解では無いでしょうか。
「最近では、曼荼羅本尊に釈迦、日蓮聖人が書いてあるから、曼荼羅本尊だけで良い。釈迦像、日蓮祖師像、鬼子母神、大黒もいらない。曼荼羅本尊だけで良いと、言い始めました。」との事ですが、「日女御前御返事」に「宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い」との文によれば、大曼荼羅には諸仏菩薩諸天が住している事になるので、 「曼荼羅本尊だけで良い」という極端な見解も主張し得ます。
日蓮宗では、御本尊としてではなく御守護神として有縁の神を別勧請して尊崇している寺院教会結社が多いです。またほとんどの寺院教会結社では大曼荼羅の前に祖師像をお祀りしていますね。
強いて「釈迦像、日蓮祖師像、鬼子母神、大黒もいらない。曼荼羅本尊だけで良い」と叫ぶ必要はないと思います。

ある日蓮宗信徒の方の言葉

最初の頃は勧請すれば何を拝んでも良いとおっしゃっていたのですが。最近読んだものに、曼荼羅本尊安置だけで良い、釈迦仏、日蓮聖人も曼荼羅本尊に書いてあるから、曼荼羅本尊だけで良いとおっしゃってました。

ムム、なんなんだろ?

中山法華経寺には日蓮聖人開眼の鬼子母神像、二尊四脇士の本尊もあるとの事。

深くは考えずに、法明教会のご住職に聞いてみます。

開目抄 日蓮本仏など微塵も書かれていない

http://blog.livedoor.jp/shakatan48/lite/

日蓮宗 法明教会様ブログからの引用

引用承諾済み

 

大石寺系教団では「開目抄は大聖人が末法の仏であると発迹顕本された御書である」と教え込まれ洗脳されてしまっています。

洗脳されているために『開目抄』を読んでも読めずの状態か、あるいは『開目抄』の全文を読まない為めか、彼らは「開目抄は大聖人が末法の仏であると発迹顕本を示した御書である、日蓮大聖人が仏だ、釈迦は役立たずの脱仏だ」と言い張り続けて云います。

 

しかし、『開目抄』は、決して「日蓮こそ末法の仏である」などと論述している御書ではありません。

『開目抄』に『我が身法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし。』とあるように、ご自身が法華経の行者であるかないかを厳密に検討することを主目的として論述された御書です。

『開目抄』に云われている『法華経の行者』と云う語句の意味は、「末法の初めに妙法五字を弘宣する命を受けた久成釈尊の本弟子である本化上行菩薩の応現者」との意味です。

『開目抄』には、「法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずばほとをど世尊は大妄語の人八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて悪口罵詈等し刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者禅宗律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台伝教もいまだよみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言のあふゆへに但日蓮一人これをよめり、(中略)日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。(中略)経文に我が身普合せり」

と、勧持品二十行の偈文を身読しているのは日蓮より以外には居ないと述べています。

類文は

『寂日房御書』

「 日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし、(中略)経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生法華経をうけたもてと勧めしは是なり、」(昭和定1669・学902)

『上野殿御返事』

「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国唐土天竺三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりとなのるべき人なし又あるべしとも覚へず、」(昭和定1635・学557)

とが有ります。

勧持品二十行の偈とは、菩薩が末法法華経を弘宣する際の迫害受難を述べている経文です。日蓮聖人は、妙法五字末法弘宣を久成釈尊より託された本化上行菩薩が受ける迫害受難を予言している経文であると理解されていたのです。

『開目抄』述作の主目的は、勧持品二十行の偈文を身読した法華経の行者、すなわち上行菩薩の再誕であるか否かを徹底的に検討することに有ります。

 

「しうし(主師)父母」と読むのは間違い

 

大石寺系では「『開目抄』の終わり部分に『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり』と有って日蓮大聖人は主師親三徳を具していると述べている。主師親三徳を具えている大聖人は仏である」と主張しています。

しかし、本山本満寺発行した身延山久遠寺21世日乾法主の真蹟対照本には、真蹟は「日蓮ハ日本国ノ諸人ニシタシ父母也」であると記録しているので、大石寺系の読みが間違っていることがわかります。

また「日蓮は日本国の諸人にしたし父母也」の文の直前には章安大師の言葉である「『慈無くして詐(いつわ)り親しむは是れ彼が怨(あだ)なり』等云々」を挙げており、直後には、同じく章安大師の「彼が為めに悪を除くは即ち是れ彼が親」の文を挙げています。このような文脈から考えても、「誤りを正し、正道を教える真の親切者の父母である」事を強調表現した言葉で「したし父母(親し父母)」と表現したと見るべきでしょう。

『開目抄』述作の一月後の御書『佐渡御書』にも「日蓮当世には此の御一門の父母なり」とあり、また文永10年の『呵責謗法滅罪抄』にも「章安の釈の如くならば、日本国の一切衆生の慈悲の父母也」

と云って、主師親の三徳を並べ挙げないで父母(親徳)のみを挙げている表現と同じように、『開目抄』のこの文も、主師親を並べ挙げているのでは無く、父母(親徳)を三徳の代表として挙げていると見るべきでしょう。

 

根本的三徳者は久成釈尊

 

もちろん『撰時抄』にも「法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、されば日蓮は当帝の父母念仏者禅衆真言師等が師範なり又主君なり、」(昭定1018頁・学会版265)

と有るように、日蓮聖人は主師親三徳を具えて居る事は云うまでも有りません。

しかし、日蓮聖人自ら「主師親の三徳者」であると云われていても、久成釈尊より根本の偉い主師親の三徳者などとは、これっぽっちも考えて居られません。

その事は『下山御消息』に、はっきりと示されています。

『下山御消息』には「そもそも釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり、一身に三徳を備え給へる仏」(昭定1319・学348頁)

と述べた後、

「 自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、経に云く[即如来の使なり]と」(昭定1331・学355頁)

と、「慈悲をもって間違いを教え正していると云う点から言えば、日蓮も親・師匠・主君の使いとしての三徳を備えている」と云っています。ここにも御自身を「主君の御使」と云って、釈尊の御使いであると明言しています。主君である釈尊の指示で末法に使わされた御使いとは本化菩薩の上行菩薩等を指すことは明白です。

『下山御消息』の教示からも、日蓮聖人は、根本的な主師親三徳者は久成釈尊であると言う大義名分を堅く守られていることが判ります。

『開目抄』の「したし父母也」を、「しうし父母なり」と読んで、「『しうし父母なり』の文は、主師親三徳を具えた大聖人こそ末法の仏である事を教示している文である」などと解釈して、日蓮本仏論を主張する大石寺系は正に日蓮聖人の教示に背く者でありましょう。

 

心にしみる詩

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

 

宮沢賢治雨ニモマケズ 全文

良く最後の7行はカットされている。

この詩のような人はもはや菩薩ですね。不軽菩薩。

みんながこのような人ならば、世界は平和になるのですね。

釈迦本仏 文証

 

観心本尊抄に『地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり』

日蓮本仏の総本山大石寺の開基日興上人の文

 

宗学全書』の「日興上人御消息の部」においてには、

「久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり。・・上行菩薩日蓮上人の御霊崛なり」(与波木井実長書・宗全2-169)

日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為めには釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を」(原殿御返事・宗全2-173)

「しょほっしんの、しゃかほとけ(釈迦仏)」(報佐渡国講衆書・宗全2-178)

等とあり、また「述作の部」の、『三時弘教次第』に「付属の弟子は 上行菩薩 日蓮聖人」(宗全2-53)

とあり、また、日道上人述『御伝土代』には、日興上人の言い置きとして「日蓮聖人云わく、本地は寂光地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり。久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。

本門教主は久遠実成無作三身寿命無量阿僧祇劫常住不滅我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数の本仏なり」(宗全2ー254頁)等とあります。これらを文証として、日興上人は久遠実成釈尊を本仏とし、大聖人を久遠実成釈尊の弟子上行菩薩の応現と説示していたことが判ります。

 

功徳燦々

前から睡眠外来に行けば?と言われ続けて数年、やっと行く気になり、昨日行って昨晩簡易検査の機器で検査。本日検査結果を簡易機器を返したら、!なんと、やばすぎ結果。いつ死んでもおかしくないらしい。本検査無しで、無呼吸睡眠治療機器の貸し出し。やっべー!死ぬ所だった。