日蓮宗信仰徒然

日蓮宗信仰徒然

摩訶止観についての論争。

日蓮宗ご僧侶様と摩訶止観修行の是非について、

論争になってしまいました。

私は末法の私達には止観行は解らないと観心本尊抄に書いてあるのて、おかしいと聞いたけど、

やらずに批判するのは?心身調整の為にやっている。摩訶止観には健康法の意味も書いてある。と言われた。

師僧に伺った。以下答えです。結論、私と同じでした。

①先ず日蓮大聖人教学を学ぶ上での約束があります。
それは大聖人自身の化導内容に佐前・佐後の相異があることです。
「法門の事はさどの国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と述べられている。『三澤抄』


②智者は止観の観念観法・唱題修行、愚者はただ唱題修行とする沙門◯◯師の意見は、佐前の意見であります。
それは『十章抄」が根拠となります。「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者にはただ一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし」


③しかし、佐後(佐渡在島中も含む)は、『報恩抄』に明らかな如く「一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。」
私たちは報恩抄等の佐後の御書を根拠とし、成仏の為には、題目受持を末法の唯一無二の修行と致します。


④また、末代行者の修行の用心を明かす『四信五品抄』には
「問て曰く、末代初心の行者、何物をか制止するや」から始まり、「答て曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解・初随喜の気分と為す也」とされ、
廃事存理と云ふは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云。
所益弘多とは初心の者が諸行と題目とを並べ行ずれば所益全く失ふと云云」と示され、所行と題目修行の併修は全く利益が無いとご教示されています。
更に、初心の者が五度等の余行を兼修すれば「正業の信」を妨げるから「専ら題目を持ちて余文を雑へず。尚一経の読誦だも許さず」と末代の成仏は題目受持と定め、法華経一経の読誦さえ、成仏の因とはならないと明確に定められています。
「譬えば小船に財を積んで海を渡るに、財と倶ともに没するがごとし。「直専持此経」と云うは、一経に亘るにあらず、専ら題目を持ちて余文を雑えず、なお一経の読誦だも許さず、いかにいわんや五度をや」


⑤上記、六度の中の五度の制止とは(布施・持戒・忍辱・精進ー戒、禅定ー定)を止めることであり、その中の禅定(観念観法)を含めること明らかです。それは末法衆生は禅定によって六度の最後の智慧ー慧に至る能力が無いゆえ、「慧また堪えざれば信を以て慧えに代う」とし、「問う、その義を知らざる人、ただ南無妙法蓮華経と唱えて解義の功徳を具するやいなや」の質問に「答う、小児乳を含むに、その味を知らざれども自然に身を益す」となり、「妙法蓮華経の五字は経文にあらず、その義にあらず、ただ一部の意のみ。初心の行者その心を知らざれども、しかもこれを行ずるに、自然に意に当あたるなり」と結ばれます。つまり、末法衆生は六即中の名字即であり、上記御書の「一念信解・初随喜」の気分故に、題目受持が唯一の修行となります。


⑥上記①〜⑤を纏めますと、先ず沙門◯◯師は佐前・佐後、像・末、迹門・本門、理・事の標準をご存じないこと考えられます。


⑦大聖人が主に身延で「摩訶止観」の講義はなされていても、四種三昧(観念観法)を成仏の因と称し、弟子と共になされていたとは考えられません。では講義をなされていた意味を推測しますと、題目の根幹は一念三千であることから、一念三千講義と思われます。


「止観の五、正月一日よりよみ候て、現世安穏・後生善処と祈請仕まつり候」『金吾殿御返事』


「止観第五の事。正月一日辰の時これをよみはじめ候ふ。明年は世間忽々なるべきよし皆人申すあひだ、一向後生のために十五日まで止観を談ぜんとし候」『上野殿母尼御前御書』


以上、止観の五とは「一念三千」の出処であることは
「摩訶止観の第五に曰く「夫それ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、〈世間と如是と一なり、開合の異なり。〉百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千、一念の心にあり。もし心なくんば已みなん。介爾も心あれば即ち三千を具す。乃至、所以に称して不可思議境となす。意ここにあり」等云云。〈或る本に云いわく、一界に三種の世間を具すと。〉」『観心本尊抄


以上から鑑るに摩訶止観の講義の主意は一念三千と推知できると考えます。


更に、その講義は理・事の一念三千に及んだことでしょう。


「一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。
天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千也。天地はるかに殊也こと也」『富木入道殿御返事』


題目受持の修行に何の不足がありましょう。


「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹つつみ、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう。四大菩薩のこの人を守護したまわん」『観心本尊抄